bunkoOCRによって認識した文章のサンプルです。
back縦書きのふりがなのサンプルです。
認識文章9 二銭 銅貨 江戸川乱歩傑作選 上 8 「あの泥棒 が羨 ましい」二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、そのころは窮迫して いた。場末の貧弱な下駄屋 の二階の、ただひと間しかない六畳に、一閑張 りの破 れ机を二つ ならべて、松村武 とこの私とが、変な空想ばかりたくましくして、ゴロゴロしていたころの お話である。もうなにもかも行き詰まってしまって、動きの取れなかった二人は、ちょうど そのころ世間を騒がせていた、大泥棒の巧みなやり口を羨むような、さもしい心持になって いた。 その泥棒事件というのが、このお話の本筋に大関係を持っているので、ここにざっとそれ をお話ししておくことにする。 芝区のさる大きな電機工場の職工給料日の出来事であった。十数名の賃銀計算係りが、五 千人近い職工のタイム・カードから、それぞれ一カ月の賃銀を計算して、山と積まれた給料 袋の中へ、当日銀行から引き出された、大トランクに一杯もあろうという、二十円、十円、 五円などの紙幣を汗だくになって詰め込んでいるさなかに、事務所の玄関へ一人の紳士が訪 れた。 受付の女が来意をたずねると、私は朝日新聞社の記者であるが、支配人にちょっとお目に かかりたいという。そこで女が東京朝日新聞社社会部記者と肩書のある名刺を持って、支配 人にこのことを通じた。幸いなことには、この支配人は新聞記者操縦法がうまいことを、ひ とつの自慢にしている男であった。のみならず、新聞記者を相手に、ほらを吹いたり、自分 の話が何々氏談などとして、新聞に載せられたりすることは、おとなげないとは思いながら、誰 しも悪い気持はしないものである。社会部記者と称する男は、快く支配人の部屋へ請 じら れた。 大きな鼈甲縁 の目がねをかけ、美しい口髭 をはやし、気のきいた黒のモーニングに、流行 の折鞄 といういでたちのその男は、いかにも物慣れた調子で、支配人の前の椅子 に腰をおろ した。そしてシガレット・ケースから、高価なエジプトの紙巻煙草 を取り出して、卓上の灰 皿 に添えられたマッチを手際 よく擦ると、青味がかった煙を、支配人の鼻先へフッと吹き出 した。 「貴下の職工待遇問題についての御意見を」とか、なんとか、新聞記者特有の、相手を呑 ん でかかったような、それでいて、どこか無邪気な、人懐 っこいところのある調子で、その男 はこう切り出した。そこで支配人は、労働問題について、多分は労資協調、温情主義という ようなことを、大いに論じたわけであるが、それはこの話に関係がないから略するとして、 約三十分ばかり支配人の室におったところの、その新聞記者が、支配人が一席弁じ終って、 「ちょっと失敬」といって便所に立ったあいだに、姿を消してしまったのである。 支配人は、不作法なやつだくらいで、別に気にもとめないで、ちょうど昼食の時間だった