二銭銅貨 著:江戸川乱歩

Created: 2023/08/30
Last Update: 2023/08/30

江戸川乱歩傑作選 著:江戸川乱歩 https://www.shinchosha.co.jp/book/114901/ より 「二銭銅貨」

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二

銭 銅貨

 江戸川乱歩傑作選

 上

「あの泥棒(どろぼう)(うらや)ましい」二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、そのころは窮迫して
いた。場末の貧弱な下駄屋(げたや)の二階の、ただひと間しかない六畳に、一閑張(いつかんば)りの()れ机を二つ
ならべて、松村武(まつむらたけし)とこの私とが、変な空想ばかりたくましくして、ゴロゴロしていたころの
お話である。もうなにもかも行き詰まってしまって、動きの取れなかった二人は、ちょうど
そのころ世間を騒がせていた、大泥棒の巧みなやり口を羨むような、さもしい心持になって
いた。
 その泥棒事件というのが、このお話の本筋に大関係を持っているので、ここにざっとそれ
をお話ししておくことにする。
 芝区のさる大きな電機工場の職工給料日の出来事であった。十数名の賃銀計算係りが、五
千人近い職工のタイム・カードから、それぞれ一カ月の賃銀を計算して、山と積まれた給料
袋の中へ、当日銀行から引き出された、大トランクに一杯もあろうという、二十円、十円、
五円などの紙幣を汗だくになって詰め込んでいるさなかに、事務所の玄関へ一人の紳士が訪
れた。
 受付の女が来意をたずねると、私は朝日新聞社の記者であるが、支配人にちょっとお目に

かかりたいという。そこで女が東京朝日新聞社社会部記者と肩書のある名刺を持って、支配
人にこのことを通じた。幸いなことには、この支配人は新聞記者操縦法がうまいことを、ひ
とつの自慢にしている男であった。のみならず、新聞記者を相手に、ほらを吹いたり、自分
の話が何々氏談などとして、新聞に載せられたりすることは、おとなげないとは思いながら、
(だれ)しも悪い気持はしないものである。社会部記者と称する男は、快く支配人の部屋へ(しよう)じら
れた。
 大きな鼈甲縁(べつこうぶち)の目がねをかけ、美しい口髭(くちひげ)をはやし、気のきいた黒のモーニングに、流行
の折鞄(おりかばん)といういでたちのその男は、いかにも物慣れた調子で、支配人の前の椅子(いす)に腰をおろ
した。そしてシガレット・ケースから、高価なエジプトの紙巻煙草(タバコ)を取り出して、卓上の(はい)
(ざら)に添えられたマッチを手際(てぎわ)よく擦ると、青味がかった煙を、支配人の鼻先へフッと吹き出
した。
「貴下の職工待遇問題についての御意見を」とか、なんとか、新聞記者特有の、相手を()ん
でかかったような、それでいて、どこか無邪気な、人懐(ひとなつ)っこいところのある調子で、その男
はこう切り出した。そこで支配人は、労働問題について、多分は労資協調、温情主義という
ようなことを、大いに論じたわけであるが、それはこの話に関係がないから略するとして、
約三十分ばかり支配人の室におったところの、その新聞記者が、支配人が一席弁じ終って、
「ちょっと失敬」といって便所に立ったあいだに、姿を消してしまったのである。
 支配人は、不作法なやつだくらいで、別に気にもとめないで、ちょうど昼食の時間だった

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ので、食堂へと出掛けて行ったが、しばらくすると、近所の洋食屋から取ったビフテキかな
んかを(ほお)ばっていたところの支配人の前へ、会計主任の男が、顔色を変えて飛んできて、報
告することには、
「賃銀支払いの金がなくなりました。とられました」
 というのだ。驚いた支配人が、食事などはそのままにして、金のなくなったという現場へ
きて調べてみると、この突然の盗難の仔細(しさい)は、だいたい次のように想像することができたの
である。
 ちょうどその当時、工場の事務室が改築中であったので、いつもならば、厳重に戸締まり
のできる特別の部屋で行なわれるはずの賃銀計算の仕事が、その日は、仮りに支配人室の隣
の応接間で行なわれたのであるが、昼食の休憩時間に、どうした物の間違いか、その応接間
が空になってしまったのである。事務員たちは、お互に誰か残ってくれるだろうというよう
な考えで、一人残らず食堂へ行ってしまって、あとにはシナ(かばん)に充満した札束が、ドアには
(かぎ)もかからない部屋に、約半時間ほども、ほうり出されてあったのだ。そのすきに、何者か
が忍び入って、大金を持ち去ったものにちがいない。それも、すでに給料袋に入れられた分
や、細かい紙幣には手もつけないで、シナ鞄の中の二十円札と十円札の束だけを持ち去った
のである。損害高は約五万円であった。
いろいろ調べてみたが、結局、どうもさっきの新聞記者が怪しいということになった。新
聞社へ電話をかけてみると、やっぱり、そういう男は本社員の中にはいないという返事だっ

た。そこで、警察へ電話をかけるやら、賃銀の支払いを延ばすわけにはいかぬので、銀行へ
改めて二十円札と十円札の準備を頼むやら、大へんな騒ぎになったのである。
 かの新聞記者と自称して、お人よしの支配人に無駄な議論をさせた男は、実は、当時、新
聞が紳士盗賊という尊称をもって書き立てていたところの、有名な大泥棒であったのだ。
 さて、所轄(しよかつ)警察署の司法主任その他が臨検して調べてみると、手掛りというものがひとつ
もない。新聞社の名刺まで用意してくるほどの賊だから、なかなか一筋縄(ひとすじなわ)で行くやつではな
い。遺留品などあろうはずもない。ただひとつわかっていたことは、支配人の記憶に残って
いるその男の容貌風采(ようぼうふうさい)であるが、それが(はなは)だたよりないのである。というのは、服装などは
むろん取りかえることができるし、支配人がこれこそ手掛りだと申し出たところの、鼈甲縁
の目がねにしろ、口髭にしろ、考えてみれば、変装には最もよく使われる手段なのだから、
これも当てにはならぬ。そこで、仕方がないので、めくら探しに、近所の車夫だとか、煙草
屋のおかみさんだとか、露店商人などいう連中に、かくかくの風采の男を見かけなかったか、
()し見かけたらどの方角へ行ったかと尋ねまわる。むろん市内の各巡査派出所へも、この人
相書きが(まわ)る。つまり非常線が張られたわけであるが、なんの手ごたえもない。一日、二日、
三日、あらゆる手段が尽された。各駅には見張りがつけられた。各府県の警察署へは依頼の
電報が発せられた。こうして、一週間が過ぎさったけれども賊は挙がらない。もう絶望かと
思われた。かの泥棒が、何か別の罪をでも犯して挙げられるのを待つよりほかはないかと思
われた。工場の事務所からは、その筋の怠慢を責めるように、毎日毎日警察署へ電話がかか

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った。署長は自分の罪ででもあるように頭を悩ました。
 そうした絶望状態の中に、一人の同じ署に属する刑事が、市内の煙草屋の店を一軒ずつ丹
念に歩きまわっていた。
 市内には、舶来の煙草をひと通り備え付けているという煙草屋が、各区に、多いのは数十
軒、少ない所でも十軒内外はあった。刑事はほとんどそれを廻りつくして、今は、山の手の
牛込と、四谷(よつや)の区内が残っているばかりであった。きょうはこの両区を廻ってみて、それで
目的を果たさなかったら、もういよいよ絶望だと思った刑事は、富籤(とみくじ)の当り番号を読むとき
のような、楽しみとも恐れともつかぬ感情をもって、テクテク歩いていた。時々交番の前で
立ち止まっては、巡査に煙草屋の所在を聞きただしながら、テクテクと歩いていた。刑事の
頭の中は FIGARO,FIGARO,FIGARO と、エジプト煙草の名前で一杯になっていた。とこ
ろが、牛込の神楽坂(かぐらざか)に一軒ある煙草屋を尋ねるつもりで、飯田橋の電車停留所から神楽坂下
へ向かって、あの大通りを歩いていたときであった。刑事は、一軒の旅館の前で、フト立ち
止まったのである。というのは、その旅館の前の、下水の(ふた)を兼ねた御影石(みかげいし)の敷石の上に、
よほど注意深い人でなければ目にとまらないような、ひとつの煙草の吸殻(すいがら)が落ちていた。そ
して、なんとそれが、刑事の探しまわっていたところのエジプト煙草と同じものだったので
ある。
さて、このひとつの煙草の吸殻から足がついて、さしもの紳士盗賊もついに獄裡(ごくり)の人とな
ったのであるが、その煙草の吸殻から盗賊逮捕までの径路に、ちょっと探偵(たんてい)小説じみた興味

があるので、当時のある新聞には、続き物になって、そのときの何某刑事の手柄話(てがらばなし)が載せら
れたほどであるが――この私の記述も、実はその新聞記事に()ったものである――私はここ
には、先を急ぐために、ごく簡単に結論だけしかお話ししている暇がないことを残念に思う。
 読者も想像されたであろうように、この感心な刑事は、盗賊が工場の支配人の部屋に残し
て行ったところの、珍らしい煙草の吸殻から探偵の歩を進めたのである。そして、各区の大
きな煙草屋をほとんど廻りつくしたが、たとえ同じ煙草を備えてあっても、エジプトの中で
も比較的売行きのよくない、その FIGARO を最近に売ったという店はごく(わず)かで、それ
がことごとく、どこの誰それと、疑うまでもないような買い手に売られていたのである。と
ころがいよいよ最終という日になって、今もお話ししたように、偶然にも、飯田橋附近の一
軒の旅館の前で、同じ吸殻を発見して、実は、あてずっぽうに、その旅館に探りを入れてみ
たのであるが、それがなんと僥倖(ぎようこう)にも、犯人逮捕の端緒となったのである。
 そこで、いろいろ苦心の末、たとえば、その旅館に投宿していたその煙草の持ち主が、工
場の支配人から聞いた人相とはまるで違っていたりして、だいぶ苦労をしたのであるが、結
局、その男の部屋の火鉢(ひばち)の底から、犯行に用いたモーニングその他の服装だとか、鼈甲縁の
目がねだとか、つけ髭だとかを発見して、逃がれぬ証拠によって、いわゆる紳士泥棒を逮捕
することができたのである。
 で、その泥棒が取り調べを受けて白状したところによると、犯行の当日――もちろん、そ
の日は職工の給料日と知って訪問したのだが――支配人の留守のまに、隣の計算室にはいっ

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て例の金を取ると、折鞄の中にただそれだけを入れておいたところの、レインコートとハン
チングを取り出して、その代りに、鞄の中へは、盗んだ紙幣の一部分を入れて、目がねをは
ずし、口髭をとり、レインコートでモーニング姿を包み、中折れの代りにハンチングをかぶ
って、きたときとは別の出口から、何くわぬ顔をして逃げ出したのであった。あの五万円と
いう紙幣を、どうして、誰にも疑われぬように、持ち出すことができたかという訊問(じんもん)に対し
て、紳士泥棒がニヤリと得意らしい笑いを浮かべて答えたことには、
「わたしどもは、からだじゅうが袋でできています。その証拠には、押収されたモーニング
を調べてごらんなさい。ちょっと見ると普通のモーニングだが、実は手品使いの服のように、
付けられるだけの隠し袋が付いているんです。五万円くらいの金を隠すのはわけはありませ
ん。シナ人の手品使いは、大きな、水のはいったどんぶり鉢でさえ、からだの中へ隠すでは
ありませんか」
 さて、この泥棒事件がこれだけでおしまいなら、別段の興味もないのであるが、ここにひ
とつ、普通の泥棒とちがった妙な点があった。そして、それが私のお話の本筋に、大いに関
係があるわけなのである。というのは、この紳士泥棒は、盗んだ五万円の隠し場所について、
一ことも白状しなかったのである。警察と、検事廷と、公判廷と、この三つの関所で、手を
換え品を換えて責め問われても、彼はただ知らないの一点張りで通した。そしておしまいに
は、その僅か一週間ばかりのあいだに、使い果たしてしまったのだというような、でたらめ
をさえ言い出したのである。その筋としては、探偵の力によって、その金のありかを探し出

中
すほかはなかった。そして、ずいぶん探したらしいのであるが、いっこう見つからなかった。
そこで、その紳士泥棒は、五万円隠匿(いんとく)のかどによって、窃盗犯としては可なり重い懲役に処
せられたのである。
 困ったのは被害者の工場である。工場としては、犯人よりは五万円を発見してほしかった
のである。もちろん、警察の方でも、その金の捜索をやめたわけではないが、どうも手ぬる
いような気がする。そこで、工場の当の責任者たる支配人は、その金を発見したものには、
発見額の一割の賞を懸けるということを発表した。つまり五千円の懸賞である。
 これからお話ししようとする、松村武と私自身とに関するちょっと興味のある物語は、こ
の泥棒事件がこういうふうに発展しているときに起こったことなのである。

 この話の冒頭にもちょっと述べたように、そのころ、松村武と私とは、場末の下駄屋の二
階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のドン底に沈んでいたので
ある。でも、あらゆるみじめさの中にも、まだしも幸運であったのは、ちょうど時候が春で
あったことだ。これは貧乏人だけにしかわからない、ひとつの秘密であるが。冬の終りから
夏のはじめにかけて、貧乏人はだいぶ(もう)けるのである。いや、儲けたと感じるのである。と
いうのは、寒いときだけ必要であった、羽織だとか、下着だとか、ひどいのになると、夜具、

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火鉢の(たぐい)に至るまで、質屋の蔵へ運ぶことができるからである。私どもも、そうした気候の
恩恵に浴して、あすはどうなることか、月末の間代の支払いはどこから捻出(ねんしゆつ)するか、という
ような先の心配をのぞいては、()ずちょっと息をついたのである。そして、しばらくは遠慮
しておった銭湯へも行けば、床屋へも行く、飯屋ではいつもの味噌汁(みそしる)と香の物の代りに、さ
しみで一合かなんかを奮発するといったあんばいであった。
 ある日のこと、いい心持になって、銭湯から帰ってきた私が、傷だらけの(こわ)れかかった一
閑張りの机の前に、ドッカと(すわ)ったときに、一人残っていた松村武が、妙な、一種の興奮し
たような顔つきをもって、私にこんなことを聞いたのである。
「君、この、(ぼく)の机の上に二銭銅貨をのせておいたのは君だろう。あれは、どこから持って
きたのだ」
「ああ、おれだよ。さっき煙草を買ったおつりさ」
「どこの煙草屋だ」
「飯屋の隣の、あの(ばあ)さんのいる不景気なうちさ」
「フーム、そうか」
 と、どういうわけか、松村はひどく考えこんだのである。そして、なおも執拗(しつよう)にその二銭
銅貨について(たず)ねるのであった。
「君、そのとき、君が煙草を買ったときだ、誰かほかにお客はいなかったかい」
「確か、いなかったようだ。そうだ。いるはずがない、そのときあの婆さんは居眠りをして

いたんだ」
 この答えを聞いて、松村はなにか安心した様子であった。
「だが、あの煙草屋には、あの婆さんのほかに、どんな連中がいるんだろう。君は知らない
かい」
「おれは、あの婆さんとは仲よしなんだ。あの不景気な仏頂面(ぶつちようづら)が、妙に気に入っているので
ね。だから、おれは相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこには婆さんのほかに、婆
さんよりはもっと不景気な(じい)さんがいるきりだ。しかし、君はそんなことを聞いてどうしよ
うというのだ」
「まあいい。ちょっとわけがあるんだ。ところで君が詳しいというのなら、もう少しあの煙
草屋のことを話さないか」
「ウン、話してもいい。爺さんと婆さんとのあいだに一人の娘がある。おれは一度か二度そ
の娘を見かけたが、そう悪くないきりょうだぜ。それがなんでも、監獄の差入屋とかへ嫁入
っているという話だ。その差入屋が相当に暮らしているので、その仕送りで、あの不景気な
煙草屋も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆さんが話していたっけ
……」
 私が煙草屋に関する知識について話しはじめたときに、驚いたことには、それを話してく
れと頼んでおきながら、もう聞きたくないといわぬばかりに、松村武が立ち上がったのであ
る。そして、広くもない座敷を、(すみ)から隅へ、ちょうど動物園の(くま)のように、ノソリノソリ

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と歩きはじめたのである。私どもは、二人とも、日頃(ひごろ)からずいぶん気まぐれなほうであった。
話のあいだに突然立ち上がるなどは、そう珍らしいことでもなかった。けれども、この場合
の松村の態度は、私をして沈黙せしめたほども、変っていたのである。松村はそうして、部
屋の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、約三十分くらい歩きまわっていた。私はだ
まって、一種の興味を持って、それを(なが)めていた。その光景は、若し傍観者があって、これ
を見たら、おそろしく気ちがいじみたものであったにちがいないのである。
 そうこうするうちに、私は腹がへってきたのである。ちょうど夕食時分ではあったし、湯
にはいった私は余計に腹がへったような気がしたのである。そこで、まだ気ちがいじみた歩
行を続けている松村に、飯屋に行かぬかと勧めてみたところが、「すまないが、君一人で行
ってくれ」という返事だ。仕方なく、私はその通りにした。
 さて、満腹した私が、飯屋から帰ってくると、なんと珍らしいことには、松村が按摩(あんま)を呼
んで、もませていたではないか。以前は私どものお馴染(なじみ)であった若い盲啞(もうあ)学校の生徒が、松
村の肩につかまって、しきりと何か、持ち前のおしゃべりをやっているのであった。
「君、贅沢(ぜいたく)だと思っちゃいけない。これにはわけがあるんだ。まあ、しばらく黙って見てい
てくれ、そのうちにわかるから」
 松村は、私の機先を制して、非難を予防するようにいった。きのう、質屋の番頭を説きつ
けて、むしろ強奪して、やっと手に入れた二十円なにがしの共有財産の寿命が、按摩賃六十
銭だけ縮められることは、この際、贅沢にちがいなかったからである。

 私は、これらの、ただならぬ松村の態度について、()る言い知れぬ興味を覚えた。そこで、
私は自分の机の前に坐って、古本屋で買ってきた講談本か何かを、読みふけっている様子を
した。そして、実は松村の挙動をソッと盗み見ていたのである。
 按摩が帰ってしまうと、松村は彼の机の前に坐って、何か紙きれに書いたものを読んでい
るようであったが、やがて彼は懐中からもう一枚の紙切れを取り出して、机の上に置いた。
それは、ごく薄い二寸四方ほどの小さな紙切れで、細かい文字が一面に書いてあった。彼は
この二枚の紙片を、熱心に比較研究しているようであった。そして、鉛筆で新聞紙の余白に、
何か書いては消し、書いては消ししていた。そんなことをしているあいだに、電灯がついた
り、表通りを豆腐屋のラッパが通り過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りが、しばらく続
いたり、それが途絶えると、シナ蕎麦屋(そばや)の哀れげなチャルメラの音が聞こえたりして、いつ
の間にか夜が()けたのである。それでも、松村は食事さえ忘れて、この妙な仕事に没頭して
いた。私はだまって自分の床を敷いて、ゴロリと横になると、退屈にも、一度読んだ講談本
を、さらに読み返しでもするほかはなかったのである。
「君、東京地図はなかったかしら」
 突然、松村がこういって、私の方を振り向いた。
「さア、そんなものはないだろう。下のおかみさんにでも聞いてみたらどうだ」
「ウン、そうだね」
 彼はすぐに立ち上がって、ギシギシという梯子段(はしごだん)を、下へ降りて行ったが、やがて、一枚

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の折り目から破れそうになった東京地図を借りてきた。そして、また机の前に坐ると、熱心
な研究をつづけるのであった。私はますます募る好奇心をもって、彼の様子を眺めていた。
 下の時計が九時を打った。松村は、長いあいだの研究が一段落を告げたと見えて、机の前
から立ち上がって、私の(まくら)もとへ坐った。そして少し言いにくそうに、
「君、ちょっと、十円ばかり出してくれないか」
 というのだ。私は松村のこの不思議な挙動については、読者にはまだ明かしてないところ
の、深い興味を持っていた。それゆえ、彼に十円という、当時の私どもに取っては、全財産
の半分であったところの大金を与えることに、少しも異議を唱えなかった。
 松村は、私から十円札を受け取ると、古袷(ふるあわせ)一枚に、(しわ)くちゃのハンチングといういでたち
で、何もいわずに、プイとどこかへ出て行った。
一人取り残された私は、松村のその後の行動についていろいろ想像をめぐらした。そして
独りほくそ笑んでいるうちに、いつか、ついうとうとと夢路に入った。しばらくして松村の
帰ったのを、夢うつつに覚えていたが、それからは、何も知らずに、グッスリと朝まで寝込
んでしまったのである。
 ずいぶん朝寝坊の私は、十時頃でもあったろうか、()()ましてみると、枕もとに妙なも
のが立っているのに驚かされた。というのは、そこには(しま)の着物に、角帯を締めて、紺の前
垂れをつけた一人の商人風の男が、ちょっとした風呂敷(ふろしき)包みを背負って立っていたのである。
「なにを妙な顔をしているんだ。おれだよ」

下
 驚いたことには、その男が、松村武の声をもって、こういったのである。よくよく見ると、
それはいかにも松村にちがいないのだが、服装がまるで変っていたので、私はしばらくのあ
いだ、何がなんだか、わけがわからなかったのである。
「どうしたんだ。風呂敷包みなんか背負って。それに、そのなりはなんだ。おれはどこの番
頭さんかと思った」
「シッ、シッ、大きな声だなあ」松村は両手で抑えつけるような恰好(かつこう)をして、ささやくよう
な小声で、「大へんなお土産を持ってきたよ」というのである。
「君はこんなに早く、どこかへ行ってきたのかい」
 私も、彼の変な挙動につられて、思わず声を低くして聞き返した。すると、松村は、抑え
つけても抑えつけても、(あふ)れ出すようなニタニタ笑いを、顔一杯にみなぎらせながら、彼の
口を私の耳のそばまで持ってきて、前よりはいっそう低い、あるかなきかの声で、こういっ
たものである。
「この風呂敷包みの中には、君、五万円という金がはいっているのだよ」

 読者もすでに想像されたであろうように、松村武は、問題の紳士泥棒(どろぼう)の隠しておいた五万
円を、どこからか持ってきたのであった。それは、かの電機工場へ持参すれば、五千円の懸

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賞金にあずかることのできる五万円であった。だが、松村はそうしないつもりだといった。
そして、その理由を次のように説明した。
 彼にいわせると、その金をばか正直に届け出るのは、愚かなことであるばかりでなく、同
時に、非常に危険なことであるというのであった。その筋の専門の刑事たちが、約一カ月も
かかって探しまわっても、発見されなかったこの金である。たとえこのまま、われわれが(ちよう)
(だい)しておいたところで、(だれ)が疑うもんか。われわれにしたって、五千円より五万円の方が(あり)
(がた)いではないか。それよりも恐ろしいのは、あいつ、紳士泥棒の復讐(ふくしゆう)である。これが恐ろし
い。刑期の延びるのを犠牲にしてまで隠しておいたこの金を、横取りされたと知ったら、あ
いつ、あの悪事にかけては天才といってもよいところのあいつが、見逃しておこうはずがな
い――松村はむしろ泥棒を畏敬(いけい)しているような口ぶりであった――このまま黙っておってさ
えあぶないのに、これを持ち主に届けて、懸賞金を(もら)いなどしようものなら、すぐ松村武の
名が新聞に出る。それは、わざわざ、あいつに、かたきのありかを教えるようなものではな
いか、というのである。
「だが、少なくとも現在においては、おれはあいつに打ち勝ったのだ。え、君、あの天才泥
棒に打ち勝ったのだ。この際、五万円もむろん有難いが、それよりも、おれはこの勝利の快
感でたまらないんだ。おれの頭はいい、少なくとも貴公よりはいいということを認めてくれ。
おれをこの大発見に導いてくれたものは、きのう君がおれの机の上にのせておいた、煙草(タバコ)の
つり銭の二銭銅貨なんだ。あの二銭銅貨のちょっとした点について、君が気づかないでおれ

が気づいたということはだ、そして、たった一枚の二銭銅貨から、五万円という金を、え、
君、二銭の二百五十万倍であるところの五万円という金を探しだしたのは、これはなんだ。
少なくとも、君の頭よりは、おれの頭の方がすぐれているということじゃないかね」
二人の多少知識的な青年が、ひと間のうちに生活していれば、そこに、頭のよさについて
の競争が行なわれるのは、至極あたり前のことであった。松村武と私とは、その日ごろ、暇
にまかせて、よく議論を戦わしたものであった。夢中になってしゃべっているうちに、いつ
の間にか夜が明けてしまうようなことも珍らしくなかった。そして、松村も私も互に譲らず、
「おれの方が頭がいい」ことを主張していたのである。そこで、松村がこの手柄(てがら)――それは
いかにも大きな手柄であった――をもって、われわれの頭の優劣を証拠立てようとしたわけ
である。
「わかった、わかった。威張るのは抜きにして、どうしてその金を手に入れたか、その筋道
を話してみろ」
「まあ急ぐな。おれは、そんなことよりも、五万円のつかいみちについて考えたいと思って
いるんだ。だが、君の好奇心を()たすために、ちょっと、簡単に苦心談をやるかな」
 しかし、それは決して私の好奇心を充たすためばかりではなくて、むしろ彼自身の名誉心
を満足させるためであったことはいうまでもない。それはともかく、彼は次のように、いわ
ゆる苦心談を語り出したのである。私は、それを、心安だてに、蒲団(ふとん)の中から、得意そうに
動く彼の(あご)のあたりを見上げて、聞いていた。

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「おれは、きのう君が湯へ行ったあとで、あの二銭銅貨をもてあそんでいるうちに、妙なこ
とには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思っ
て、調べてみると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見たまえ、これ
だ」
 彼は、机の引出しから、その二銭銅貨を取り出して、ちょうど練り薬の容器をあけるよう
に、ネジを(まわ)しながら、上下にひらいた。
「そら、ね、中が空虚になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じ
ゃないか。ちょっと見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、
おれは思い当ったことがあるんだ。おれはいつか牢破(ろうやぶ)りの囚人が用いるという(のこぎり)の話を聞い
たことがある。それは懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸(おびのこ)みたようなものを、
二枚の銅貨を擦りへらして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な
牢屋の鉄の棒でも、なんなく切り破って脱牢するんだそうだ。なんでも元は外国の泥棒から
伝わったものだそうだがね。そこでおれは、この二銭銅貨も、そうした泥棒の手から、どう
かしてまぎれ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。
というのは、おれの好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発(ちようはつ)したところの、一枚の
紙片がその中から出てきたんだ。それはこれだ」
 それは、ゆうべ松村が一生懸命に研究していた、あの薄い小さな紙片であった。その二寸
四方ほどの日本紙には、細かい字で左のような、わけのわからぬものが書きつけてあった。

「この坊主(ぼうず)の寝言みたようなものは、なん
だと思う。おれは最初は、いたずら書きだ
と思った。前非を悔いた泥棒かなんかが、
罪亡(つみほろ)ぼしに南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)をたくさん並べて
書いたのかと思った。そして、牢破りの道
具の代りに銅貨の中へ入れておいたのじゃ
ないかと思った。が、それにしては、南無
阿弥陀仏と続けて書いてないのがおかしい。
陀とか、無弥仏とか、どれも南無阿弥陀仏
の六字の範囲内ではあるが、完全に書いた
のはひとつもない。一字きりのやつもあれ
ば、四字五字のやつもある。おれは、こい
つはただのいたずら書きではないと感づい
た。ちょうどそのとき、君が湯屋から帰っ
 てきた足音がしたんだ。おれは急いで、二
銭銅貨とこの紙片を隠した。どうして隠したというのか。おれにもはっきりわからないが、
たぶんこの秘密を独占したかったのだろう。そしてすべてが明らかになってから君に見せて、

陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、
南無阿陀、阿弥陀、無陀、
南無陀仏、阿弥陀、無陀、陀、
南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、
無陀、南仏、南陀、無弥、
無阿弥陀仏、南無阿陀、阿弥、
無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、
南弥、南無弥仏、無阿弥陀、
南無弥陀、南弥、南無弥仏、
無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、
無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、
南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、
南無陀仏、阿弥陀、無陀、
 南無阿弥陀、阿陀仏、

page11

27

ニ

銭 銅貨

 江戸川乱歩傑作選

26

自慢したかったのだろう。ところが、君が梯子段を上がっているあいだに、おれの頭に、ハ
ッとするようなすばらしい考えが(ひらめ)いたんだ。
 というのは、例の紳士泥棒のことだ。五万円の紙幣をどこへ隠したのか知らないが、まさ
か、刑期が終るまでそのままでいようとは、あいつだって考えないだろう。そこで、あいつ
には、あの金を保管させるところの手下乃至(ないし)は相棒といったようなものがあるにちがいない。
いま仮りにだ、あいつが不意の捕縛のために五万円の隠し場所を相棒に知らせる暇がなかっ
たとしたらどうだ。あいつとしては、未決監にいるあいだに、何かの方法でそのなかまに通
信するほかはないのだ。このえたいのしれない紙片が、()しやその通信文であったら……こ
ういう考えがおれの頭に閃いたんだ。むろん空想さ。だが、ちょっと甘い空想だからね。そ
こで、君に二銭銅貨の出所についてあんな質問をしたわけだ。ところが君は、煙草屋の娘が
監獄の差入屋へ嫁入っているというではないか。未決監にいる泥棒が外部と通信しようとす
れば、差入屋を媒介者にするのが最も容易だ。そして、若しその目論見(もくろみ)が何かの都合で手違
いになったとしたら、その通信は差入屋の手に残っているはずだ。それが、その家の女房(にようぼう)に
よって親類の家に運ばれないと、どうして言えよう。さア、おれは夢中になってしまった。
 さて、若しこの紙片の無意味な文字がひとつの暗号文であるとしたら、それを解くキイは
なんだろう。おれはこの部屋の中を歩きまわって考えた。可なりむずかしい、全部拾ってみ
ても、南無阿弥陀仏の六字と読点(とうてん)だけしかない。この七つの記号をもってどういう文句が(つづ)
れるだろう。おれは暗号文については、以前にちょっと研究したことがあるんだ。シャーロ

ック・ホームズじゃないが、百六十種くらいの暗号の書き方はおれだって知っているんだ。
で、おれは、おのれの知っている限りの暗号記法を、ひとつひとつ頭に浮かべてみた。そし
て、この紙切れのやつに似ているのを探した。ずいぶん手間取った。確か、そのとき君が飯
屋へ行くことを勧めたっけ。おれはそれをことわって一生懸命考えた。で、とうとう少しは
似た点があると思うのを二つだけ発見した。そのひとつはベイコンの考案した two letters
暗号法というやつで、それはaとbとのたった二字のいろいろな組み合わせで、どんな文句
でも綴ることができるのだ。たとえば fly という言葉を現わすためには aabab, aabba,
ababa. と綴るといった調子のものだ。もひとつは、チャールズ一世の王朝時代に、政治上
の秘密文書に盛んに用いられたやつで、アルファベットの代りに、ひと組の数字を用いる方
法だ。たとえば……」
 松村は机の(すみ)に紙片をのべて、左のようなものを書いた。
 A B C
 D……
 1111 1112
 1121
 1211……
「つまりAの代りには一千百十一を置き、Bの代りには一千百十二を置くといったふうのや
り方だ。おれは、この暗号も、それらの例と同じように、いろは四十八字を南無阿弥陀仏を
いろいろに組み合わせて置き換えたものだろうと想像した。さて、こいつを解く方法だが、
これが英語かフランス語なら、ポーの Gold bug にあるようにeを探しさえすれば訳はな
 いんだが、困ったことに、こいつは日本語にちがいないんだ。念のためにちょっとポー式の

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29

濁音
符

阿

●

�

陀

●

陀

●

二銭

無

●

ゴ

●●

ゥ

弥

仏

●

●

南弥

南弥
無
仏

●●
●
●

ケ

南弥
無
仏

●●
●
●

ヶ

銅貨

阿仏

陀

●

●●

ン

無陀
阿

弥

●

●●
●

ト

●

●

チ

●

弥

南弥
無陀

レ

●

●

無陀
阿

弥

●
●●

ヨ

南弥

●●

ウ

無陀

●●

-

南弥
無
仏

ヶ

シ

ト

弥

●

無陀
阿

弥

無陀

00
●

南

ヨ

無陀

��

り

無陀

●●

-

=

濁音
符

ン

陀

●

阿仏

陀

南

無陀
仏

�

●

��
0


ノ

ジ

●

弥

ナ

キ

仏

●

●

●

南

濁音
符

陀

阿仏

ハ

�

●

無陀
阿

ド

濁音
符

弥

●

陀

無陀

●

南

●

●●

阿

-

ダ

●

陀

江戸川乱歩傑作選

南

●

ィ

カ

仏

●

南

●

無

●

コ

ラ

陀

●

●

仏

弥

●

無

●

オ

●

南弥
仏

●●
●

ク

弥

●

無陀
阿仏

��

●

阿

モ

ャ

●

●

弥

●

弥

チ

シ

●

●

弥

●

●

阿

南

ョ

ヤ

●

ノ

無陀無陀

●●
●

●

●

陀

●

阿

無

●●

-

●

弥

●

●

南

サ

南弥
無陀
阿

テ

●

●

●

仏

陀

●

●

阿仏

●●

ン

南弥
陀
阿

ツ

陀

●

●

28

�●

弥
弥仏

南無

●●

●●
�●

��

南阿

南無

●●

無阿

●�

ディシファリングをやってみたが、少しも解けな
い。おれはここでハタと行き詰まってしまった。
六字の組み合わせ、六字の組み合わせ、おれはそ
ればかり考えて、また部屋を歩きまわった。おれ
は六字という点に、何か暗示がないかと考えた。
そして六つの数でできているものを思い出してみ
た。
 めったやたらに六という字のつくものを並べて
いるうちに、ふと、講談本で覚えたところの真田(さなだ)
幸村(ゆきむら)の旗印の六連銭を思い浮かべた。そんなもの
が暗号になんの関係もあるはずはないのだが、ど
ういうわけか「六連銭」と、口の中でつぶやいた。
すると、するとだ。インスピレーションのように、
おれの記憶から飛び出したものがある。それは、
六連銭をそのまま縮小したような形をしている盲
人の使う点字であった。おれは思わず「うまい」
と叫んだよ。だって、なにしろ五万円の問題だか
らなあ。おれは点字について詳しくは知らなかっ

たが、六つの点の組み合わせということだけは記
憶していた。そこで、さっそく按摩(あんま)を呼んできて
伝授にあずかったというわけだ。これが按摩の教
えてくれた点字のいろはだ」
 そういって松村は、机の引出しから一枚の紙片
を取り出した。それには、点字の五十音、濁音符、
半濁音符、拗音(ようおん)符、長音符、数字などが、ズッと
並べて書いてあった。
「今、南無阿弥陀仏を、左からはじめて三字ずつ
二行に並べれば、この点字と同じ配列になる。南
無阿弥陀仏の一字ずつが、点字のおのおのの一点
に符合するわけだ。そうすれば、点字のアは南、
イは南無と、いうぐあいに当てはめることができ
る。この調子で解けばいいのだ。そこで、これは、
おれがゆうべこの暗号を解いた結果だがね。いちばん上の行が原文の南無阿弥陀仏を点字と
同じ配列にしたもの、まん中の行がそれに符合する点字、そしていちばん下の行が、それを
翻訳したものだ」
 こういって、松村はまたもや図に示したような紙片を取り出したのである。

南無阿

弥仏

●●

page13

31

 �銭 銅 貨

 江戸川乱歩傑作選

30

「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコク
ヤシヨーテン。つまり、五軒町の正直堂からおもちゃの紙幣を受け取れ、受取人の名は大黒
屋商店というのだ。意味はよくわかる。だが、なんのためにおもちゃの紙幣なんかを受け取
るのだろう。そこでおれはまた考えさせられた。しかし、この(なぞ)は割合い簡単に解くことが
できた。そして、おれはつくづくあの紳士泥棒の、頭がよくって敏捷(びんしよう)で、なおその上に小説
家のようなウイットを持っていることに感心してしまった。え、君、おもちゃの紙幣とはす
てきじゃないか。
 おれはこう想像したんだ。そして、それが幸いにもことごとく的中したわけだがね。紳士
泥棒は、万一の場合をおもんぱかって、盗んだ金の最も安全な隠し場所を、あらかじめ用意
しておいたにちがいないんだ。さて世の中にいちばん安全な隠し方は、隠さないことだ。衆
人の目の前に(きら)しておいて、しかも誰もがそれに気づかないというような隠し方が最も安全
なんだ。恐るべきあいつは、この点に気づいたんだ。と想像するんだがね。で、おもちゃの
紙幣という巧妙なトリックを考え出した。おれは、この正直堂というのは、たぶんおもちゃ
の紙幣なんかを印刷する店だと想像した。――これも当っていたがね。――そこへ、あいつ
は大黒屋商店という名で、あらかじめおもちゃの紙幣を注文しておいたんだ。
 近頃(ちかごろ)、本物と寸分違わないようなおもちゃの紙幣が、花柳界などで流行しているそうだ。
それは誰かから聞いたっけ。ああ、そうだ。君がいつか話したんだ。ビックリ(ばこ)だとか、本
物とちっとも違わない泥で作った菓子や果物だとか、(へび)のおもちゃだとか、ああしたものと

同じように、女の子をびっくりさせて喜ぶ粋人のおもちゃだといってね。だから、あいつが
本物と同じ大きさの紙幣を注文したところで、ちっとも疑いを受けるはずはないんだ。そう
しておいて、あいつは、本物の紙幣をうまく盗み出すと、たぶんその印刷屋へ忍び込んで、
自分の注文したおもちゃの紙幣と擦り換えておいたんだ。そうすれば、注文主が受け取りに
行くまでは、五万円という天下通用の紙幣が、おもちゃとして、安全に印刷屋の物置に残っ
ているわけだからね。
 これは単におれの想像かもしれない。だが、ずいぶん可能性のある想像だ。おれはとにか
く当ってみようと決心した。地図で五軒町という町を探すと、神田区内にあることがわかっ
た。そこでいよいよおもちゃの紙幣を受け取りに行くのだが、こいつがちょっとむずかしい。
というのは、このおれが受け取りに行ったという痕跡(こんせき)を、少しだって残してはならないんだ。
もしそれがわかろうものなら、あの恐ろしい悪人がどんな復讐をするか、思っただけでも、
気の弱いおれはゾッとするからね。とにかく、できるだけおれでないように見せなければい
けない。そういうわけで、あんな変装をしたんだ。おれはあの十円で、頭の先から足の先ま
で身なりを変えた。これを見たまえ、これなんかちょっといい思いつきだろう」
 そういって、松村はそのよく(そろ)った前歯を出して見せた。そこには、私がさきほどから気
づいていたところの、一本の金歯が光っていた。彼は得意そうに、指の先でそれをはずして、
私の目の前へつき出した。
「これは夜店で売っている、ブリキにメッキしたやつだ。ただ歯の上に(かぶ)せておくだけの(しろ)

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33

ニ銭 銅貨

 江戸川乱歩傑作選

32

(もの)さ。わずか二十銭のブリキのかけらが大した役に立つからね。金歯というやつはひどく人
の注意を()くものだ。だから、後日おれを探すやつがあるとしたら、()ずこの金歯を目印に
するだろうじゃないか。
 これだけの用意ができると、おれはけさ早く五軒町へ出掛けた。ひとつ心配だったのはお
もちゃの紙幣の代金のことだった。泥棒のやつ、きっと、転売なんかされることを恐れて、
前金で支払っておいただろうとは思ったが、若しまだだったら、少なくとも二、三十円は入
用だからね。あいにくわれわれにはそんな金の持ち合わせがない。なあに、なんとかごまか
せばいいと高をくくって出掛けた。うまいぐあいに、印刷屋は金のことなんか一こともいわ
ないで、品物を渡してくれたよ。かようにして、まんまと首尾よく五万円を横取りしたわけ
さ。……さてそのつかいみちだ。どうだ何か考えはないかね」
 松村が、これほど興奮して、これほど雄弁にしゃべったことは珍らしい。私はつくづく五
万円という金の偉力に驚嘆した。私はその都度、形容する(はん)を避けたが、松村がこの苦心談
をしているあいだの(うれ)しそうな顔というものは、まったく見ものであった。彼ははしたなく
喜ぶ顔を見せまいとして、大いに努力しておったようであるが、努めても、努めても、腹の
底から込み上げてくる、なんともいえぬ嬉しそうな笑顔を隠すことができなかった。話のあ
いだあいだにニヤリと()らす、その形容のしようもない、気ちがいのような笑いを見ている
と、なんだか恐ろしくなってきた。昔千両の富くじに当たって発狂した貧乏人があったとい
う話もあるのだから、松村が五万円に狂喜するのは決して無理ではなかった。

 私はこの喜びがいつまでも続けかしと願った。松村のためにそれを願った。だが、私には、
どうすることもできぬひとつの事実があった。止めようにも止めることのできない笑いが爆
発した。私は笑うんじゃないと自分自身を(しか)りつけたけれども、私の中の小さないたずら好
きの悪魔が、そんなことにはへこたれないで私をくすぐった。私は一段と高い声で、最もお
かしい笑劇を見ている人のように笑った。松村はあっけにとられて、笑いころげる私を見て
いた。そしてちょっと変なものにぶっつかったような顔をして言った。
「君、どうしたんだ」
 私はやっと笑いを()み殺してそれに答えた。
「君の想像力は実にすばらしい。よくそれだけの大仕事をやった。おれはきっと今までの数
倍も君の頭を尊敬するようになるだろう。なるほど君のいうように、頭のよさでは(かな)わない。
だが、君は、現実というものがそれほどロマンチックだと信じているのかい」
 松村は返事もしないで、一種異様の表情をもって私を見つめた。
「言いかえれば、君は、あの紳士泥棒にそれほどのウイットがあると思うのかい。君の想像
は、小説としては実に申し分がないことを認める。けれども世の中は小説よりはもっと現実
的だからね。そして、若し小説について論じるのなら、おれは少し君の注意を惹きたい点が
ある。それは、この暗号文には、もっとほかの解き方はないかということだ。君の翻訳した
ものを、もう一度翻訳する可能性はないかということだ。たとえばだ、この文句を八字ずつ
飛ばして読むというようなことはできないことだろうか」

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35

ニ銭 銅貨

 江戸川乱歩傑作選

34

 ○
 私はそういって、松村の書いた暗号の翻訳文に左のような印をつけた。
○ � 0 0 O
ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤ
シヨーテン
「ゴジヨウダン。君、この『御冗談』というのはなんだろう。エ、これが偶然だろうか。誰
かのいたずらだという意味ではないだろうか」
 松村は物をもいわず立ち上がった。そして五万円の札束だと信じきっているところの、か
の風呂敷包(ふろしきづつ)みを私の前へ持ってきた。
「だが、この事実をどうする。五万円という金は、小説の中からは生れないぞ」
 彼の声には、果たし合いをするときのような真剣さがこもっていた。私は恐ろしくなった。
そして、私のちょっとしたいたずらの、予想外に大きな効果を、後悔しないではいられなか
った。
「おれは、君に対して実に済まぬことをした。どうか許してくれ。君がそんなに大切にして
持ってきたのは、やはりおもちゃの紙幣なんだ。まあそれをひらいてよく調べてみたまえ」
 松村は、ちょうど(やみ)の中で物を探るような、一種異様の手つきで――それを見て、私はま
すます気の毒になった――長いあいだかかって風呂敷包みを解いた。そこには、新聞紙で丁
寧に包んだ二つの四角な包みがあった。そのうちのひとつは新聞紙が破れて中味が現われて

いた。
「おれは途中でこれをひらいて、この目で見たんだ」
 松村は(のど)につかえたような声でいって、なおも新聞紙をすっかり取り去った。
 それは、いかにも真にせまったにせ物であった。ちょっと見たのでは、すべての点が本物
であった。けれども、よく見ると、それらの紙幣の表面には、圓という字の代りに團という
字が、大きく印刷されてあった。十圓、二十圓ではなくて、十團、二十團であった。松村は
それを信ぜぬように、幾度も幾度も見直していた。そうしているうちに、彼の顔からは、あ
の笑いの影がすっかり消え去ってしまった。そして、あとには深い深い沈黙が残った。私は
済まぬという気持で一杯であった。私は、私のやり過ぎたいたずらについて説明した。けれ
ども、松村はそれを聞こうともしなかった。その日一日、おしのようにだまり込んでいた。
これで、このお話はおしまいである。けれども読者諸君の好奇心を()たすために、私のい
たずらについて一こと説明しておかねばならぬ。正直堂という印刷屋は実は私の遠い親戚(しんせき)で
あった。私は()る日、せっぱ詰まった苦しまぎれに、そのふだんは不義理を重ねているとこ
ろの親戚のことを思い出した。そして「いくらでも金の都合がつけば」と思って、進まぬな
がら久し振りでそこを訪問した。――むろんこのことについては松村は少しも知らなかった。
――借金の方は予想通り失敗であったが、その時はからずも、あの本物と少しも違わないよ
 うな、その時は印刷中であったところのおもちゃの紙幣を見たのである。そしてそれが大黒

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二 銭 銅 貨

 江戸川乱歩傑作選

36

屋という長年の御得意先の注文品だということを聞いたのである。
 私はこの発見を、われわれの毎日の話柄(わへい)となっていた、あの紳士泥棒の一件と結びつけて、
ひと芝居打ってみようと、くだらぬいたずらを思いついたのであった。それは、私も松村と
同様に、頭のよさについて、私の優越を示すような材料が(つか)みたいと、日頃から熱望してい
たからでもあった。
 あのぎこちない暗号文は、もちろん私の作ったものであった。しかし、私は松村のように
外国の暗号史に通じていたわけではない。ただちょっとした思いつきにすぎなかったのだ。
煙草屋の娘が差入屋へ嫁いでいるというようなことも、やはりでたらめであった。第一、そ
の煙草屋に娘があるかどうかさえ怪しかった。ただ、このお芝居で、私の最も(あや)ぶんだのは、
それらのドラマチックな方面ではなくて、最も現実的な、しかし全体から見ては極めて些細(ささい)
な、少し滑稽味(こつけいみ)を帯びた、ひとつの点であった。それは私が見たところのあの紙幣が、松村
が受け取りに行くまで、配達されないで、印刷屋に残っているかどうかということであった。
 おもちゃの代金については、私は少しも心配しなかった。私の親戚と大黒屋とは延べ取り
引であったし、その上もっといいことは、正直堂が極めて原始的な、ルーズな商売のやり方
をしていたことで、松村は別段、大黒屋の主人の受取証を持参しないでも、失敗するはずは
なかったからである。
 最後にあのトリックの出発点となった二銭銅貨については、私はここに詳しい説明を避け
ねばならぬことを残念に思う。若し、私がへまなことを書いては、後日、あの品を私にくれ

た或る人が、とんだ迷惑をこうむるかもしれないからである。読者は、私が偶然それを所持
していたと思ってくださればよいのである。

結果の評価

おおむね良好な結果が得られている。

文字の認識ブロックの、表示順序の設定の関係で、章の区切りである「中」「下」の場所が、 別のブロックの間に挟まってしまっている。また、表が出てくる場所 page12 は、 表の認識をさせていないので中身がバラバラに表示されてしまう。

空白を使って、文字の位置合わせを行っている部分 page11 page15 は、 文字自体は取得できているものの、その位置を認識させていないため、対応関係が崩れている。

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